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■生涯の恩師から学んだ経済の倫理
私は昭和18年4月、織物業が盛んだった大阪府岸和田市で生まれ た。父は税関職員、母は隣接する貝塚市の裕福な織物工場の娘だった。祖父の実家にあたる本家が庄屋だったこともあり、私の生家はもとは裕福で、祖父は織物 工場に出資し、経営に加わっていた。しかし、祖父は土地を担保に入れてまで糸相場に手を出し、そのうち、工場は倒産してしまったそうだ。
かなりの田畑を手放し、祖母は祖父の亡き後もよく、「おじいさんはばかだった」とこぼしていた。職業軍人でもあった父が、復員後に市役所の公務員を勤め上 げたのも、祖父の失敗が反面教師になったのだろう。戦後に父は胸を患い、長男の私は力仕事を頼りにされ、学校の合間に農作業を手伝った。父の実直さを通 じ、「まじめにこつこつと働いていかないといけない」と自覚するような、少し大人びた子供だった。
私は父の母校でもある地元の府立岸和田高校に入学した。2人の姉も弟も同じ高校で、「うちの子供は4人とも岸高」というのは母の晩年までの自慢だった。秋祭りには、だんじりを引くという平凡な田舎暮らしを送っていたが、大学入試に失敗し、生活は大きく変わっていった。
京都大や大阪大に合格した同級生もおり、教育熱心で負けず嫌いの母には、顔を上げて歩けないような思いをさせたかもしれない。私自身も、地元には居づらくなり、親戚(しんせき)の家に下宿して大阪市内の予備校に通った。
浪人時代は、挫折を経験した点では意味があったかもしれないが、孤独で精神的に落ち込み、得るものはなかった。翌年、私は和歌山大に合格。経済原論と経済学史のゼミの担当助教授(後に教授)として、生涯の恩師である山中隆次先生と出会うことになる。
山中先生は、高名な社会科学者である高島善哉・一橋大名誉教授の門下生で、一貫して教わったのは、経済活動で必要な倫理と道徳だった。金融ビジネスは、形 のない金を扱うだけに、経済人、金融人としてのあり方が問われる。祖父の相場での失敗もあり、両親は証券会社への就職に最後まで反対したが、私は山中ゼミ で学ぶうち、自分がやらなければいけないという使命感を抱き、金融機関の門をたたいた。
実は就職の際、大和証券の半日遅れで、ある保険会 社から内定の連絡をもらった。大学の推薦枠の関係で、少しでも早く内定した会社に就職するというルールがあったが、保険会社の持つ社会性や安定感にひか れ、山中先生に相談に行くと、「ルールを曲げてまで自分の勝手な都合が通るか。今まで何を学んできた」と激しく怒られた。
山中先生は3年前に他界されたが、社長になってからも手紙や電話を下さり、私を励まし、支えていただいた。
■腕時計に込めた社会人の原点
30年近く使い続けている腕時計がある。昭和55年11月、13年間 を過ごした大阪の難波支店から、秘書改革のために東京本社に転勤する際、お客さまがお金を出し合って贈ってくれた記念品だ。つい先日も、このメーカーの社 長さんから、「こんなに長く使ってもらっては困りますよ」とからかわれた。シンプルなデザインの電池式だが、社長、会長になっても常に私とともにあり、社 会人としての原点である難波支店時代を思い起こさせてくれている。
大学を卒業し、大和証券に入社したのは42年。最初に配属されたのは、 西日本最大の支店である大阪の梅田支店だった。その年は八十数人が入社したが、当時の新入社員はみな、全国の大型店に配属され、梅田への配属は5人。私 は、大阪府岸和田市の実家から電車で通勤し、駆け出しの証券マンとしての日々を歩み始めた。
最初は、研修を兼ねて営業現場に出されるわけ だが、私はどうも、証券会社の新入社員としては、押しの強さに欠けるとみられたようで、何となく上司の受けがよくなかった。同期よりも営業成績が悪いと か、大きなミスをしたわけではないのに、期待されていないような雰囲気を自分でも感じていた。
案の定、3カ月ほどして支店長に呼ばれ、大 阪ミナミの難波支店への転勤を命じられた。難波は日本有数の繁華街とはいえ、ビジネス街にあって法人営業部門を持つ梅田支店に比べれば、事実上の都落ち だった。そのときは、人生はうまくいかないな、と思ったけれど、仕事はこうあるべきだというものを体得したのは、まさに難波支店の13年間だった。
飛び込み営業で知り合ったIさんは、生涯忘れられないお客さまの一人だ。大金持ちの繊維問屋のご主人で、高級住宅街にあるご自宅に伺うたびに、商売や人生について、懇々と語っていただいた。
年賀状に、年明けに来るようにとあるので、ついに注文がもらえると意気込んでいくと、孫の誕生祝いとして、割引債を最低購入単位の1万円だけ。がっかりし ながらも、ていねいにお礼を述べて帰ったら、1カ月くらいして、今でいえば億単位の大口注文をいただけるようになった。
Iさんは、まだ新人の私を試したのだと思う。Iさんは私に、「若竹のごとく、すくすくと伸び包丁となれ-圭革」という言葉を下さった。圭革は草履の意味だ。商売人は口八丁 ではだめで、お客さまと向き合い、商売の厳しさを身につけ、誠心誠意尽くす。仕事の基本は汗をかき、足を運ぶことだ。
Iさんについては、当時の社内報に、「私のお客さん」として紹介させていただいた。その社内報は、今も大切に保存してある。
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【プロフィル】原良也
はら・よしなり 昭和18年、大阪府生まれ。和歌山大卒。42年、大和証券入社。平成9年、社長、11年、持ち株会社制移行に伴い大和証券グループ本社社長を兼務、16年から現職。今月、日本経団連評議員会副議長に就任予定。
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