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■「バブル」体験…生き残りかけ改革へ
大阪の難波支店で芽が出て仕事が軌道に乗り、副社長賞を何度 か受賞した私は、秘書改革のため、昭和55年に東京本社に異動になった。11月末という時期はずれの異動で、国際、商品、そして私のいた営業の各部門から 1人ずつ選ばれた。それまでの庶務的な秘書ではなく、経営陣のブレーンとしての役割を担わせるためだ。
営業現場の第一線から秘書室に配属 されるのは異例のことで、経営と現場をつなぐ、風通しのいい経営体制づくりにつながったのだと思う。法令順守(コンプライアンス)体制確立の第一歩ともい え、後年の「証券冬の時代」に、会社の生き残りをかけた改革に取り組むことになる私にとって、大きな転機になった。1年半で事業法人部門に異動したが、秘 書として経営トップに付き、生の経営を見たことは、いい経験になった。
事業法人部門では、すさまじい日々が待っていた。57年の事業法人第1部の課長に始まり、担当常務を卒業する平成9年春までの15年間は、バブル経済の生成から崩壊後の後始末に至る過程であり、私はそのど真ん中にいた。
それまでの証券会社の法人部門といえば、社債発行を中心に、顧客企業の事業に必要な資金を調達するのが主な仕事だった。ところがこの時期、余剰資金の運用を促し、さらには調達して運用する「稼ぐ財務」を助長。企業の株式持ち合い構造も作り上げた。
疑問を抱きながらも、バブルの波に乗った私にも責任の一端はあるのだが、この時期の日本は、資本主義経済の本来のあり方から逸脱し、後進性を発揮してしまったと思う。
一方で、事業法人担当を通じて、日本を代表する多くの経営者と知り合い、学ばせてもらった。花王の丸田芳郎(よしお)社長(当時)はその一人だ。丸田さん はよく、「新しい商品をつくるときはトップシェアを狙う」と言っておられた。トップシェアを取るために、他社にない、差別化された質の高い商品をつくると いうことだろう。
私は、証券界を揺るがした総会屋利益供与事件の発覚を受けて、9年10月に社長に就任した。直後には山一証券が自主廃業するという激動の時代だ。社長就任に際し、経営の基本方針の一つとして、商品開発力と金融技術力の重視を掲げた。
丸田さんはメーカーのトップだが、金融機関も同じだと考えたからだ。米経営学者のマイケル・ポーターさんが、金太郎あめのように同じ商品とサービスを顧客に押し付けていた日本の証券業界を「失敗産業」と呼んだのも、私には衝撃的だった。
こうした中で、「つぎつぎと、次のスタンダードを。」という当時の大和のコーポレート・スローガンが生まれ、社史に残る改革が始まった。
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